1062年9月15日、源頼義・清原武則連合軍が、北上川と雫石川に囲まれた厨川柵(盛岡市)で安倍氏の軍と対峙していた。前九年合戦の最終決戦の時だった。
本書は、厨川柵の戦いで、安倍氏が敗れた時点から書き起こす。以降、安倍氏の血を引き生き残った清衡(平泉藤原氏初代)の戦後、清原一族の内紛が大きな争乱となった後三年合戦のことを第一章で追う。
第二章初代清衡が中尊寺を建立する創業の時期、三章の二代基衡、四章三代秀衡、五章四代泰衡と続く。泰衡率いる平泉藤原氏が源頼朝に滅ぼされえながらも、遺志を継ぎ抵抗戦を続けた大河兼任も陣没して藤原氏が滅亡する終章まで、史上ただ一度、東北が日本の進路を左右しかねなかった平泉藤原氏の光を影を鮮やかに描いた。
はしがきで「文献資料や伝承資料を織り交ぜながら、平泉の歴史と文化を語る読み物にしようと試みた」と述べる。生き生きと、臨場感あふれる描写は、著者の試みが成功したことを示している。
著者は、昨年「新みちのく物語―前九年・延久・後三年合戦」で平泉前史を、「義経北行 上・下」で源義経の東下りと生存伝説を書いた。
今回本書を刊行したことで、藤原氏の創業から発展、滅亡の歴史が加わった。著者の平泉藤原物語は完結したといえる。
著者は県立博物館長、県文化財愛護協会会長、県教育弘済会理事長などを歴任、盛岡市在住。
一日一人、本県ゆかりの先人の足跡を学ぶ。1ページ目の1月1日は、盛岡出身の洋画家五味清吉が生まれた日(1886年)。顔写真と経歴のほか、「この日の出来事」として、1719年の岩手山噴火が紹介されている。
以下、誕生日か死亡日にちなみ、近現代を中心とした365人を紹介している。例えば今日7月15日は、釜石出身で蘭学史研究の権威だった板沢武雄博士が世を去った日(1962年)。宮内省図書寮時代に森鴎外に啓発され、猛勉強したエピソードなども盛り込んでいる。
先人は、本県出身者に限らない。1935年、宮古に2週間滞在し「宮本武蔵」を執筆した吉川英治や、1893年に東北旅行で本県に立ち寄った俳人正岡子規らも紹介されており、バラエティーに富んでいて飽きさせない。
職業も作家や医師、政治家、自由民権運動家、銀行員、実業家、盛岡藩主など多彩だ。もちろん、石川啄木や宮沢賢治、野村胡同、米内光政、原敬ら本県を代表する先人たちも掲載されている。
本書は、18年前に発行された「人物ごよみ」の改訂版。約20人の顔写真をより鮮明なものに差し替えたほか、比較的なじみの薄い人物を削除し、ポピュラーな人物に替えた。また明らかになった範囲で没年や墓の所在も加えた。
著者の浦田敬三さんは「この種のものとしては、全国的規模で一覧表になったものは見かけるが、一つの県単独で、しかも人物小辞典に代わるものとしたのは、最初の試みではないかと思われる」としている。
同書は▽雑穀▽豆類▽山菜▽五穀▽ご飯などさまざまな料理ーの五項目に分けて、約百七十品の材料と作り方を写真付きで紹介している。
取り上げている料理は、雑穀や豆類などに加えて、野菜をふんだんに取り入れているのが特徴。「健康を考えて、野菜をたくさん食べてほしい」という願いからだ。
ひえギョウザは、具の中身で豚ひき肉を少なめにし、ひえを、入れるほか玉ネギやニラを使ってヘルシーに仕上げる。豆入りミートソースも、豚ひき肉を少なくして大豆を入れ、玉ネギやニンジン、ピーマンなどで作る。スパゲティだけでなく、ご飯にかけてもおいしく、子どもが喜びそうだ。
そば粉春巻き揚げは、肉を一切使わずに、そば粉とカニ風味かまぼこ、ニラで具を作って揚げる。酒のさかなにも合うという。二杯酢や三杯酢など合わせ調味料を作る際の分量、魚の焼き方や煮方など調理の基本を紹介しているほか、テーブルマナーについても取り上げている。野菜の栄養面の効果も掲載している。
柏さんは青森県弘前市の出身。父親の実家が下宿を営み、小さいころから調理を手伝う機会が多く、自然に料理を作るのが好きになった。
一戸町内の高校を卒業し、弘前市内や盛岡市内の料理学校に通い勉強。四十年ほど前に、親類とその友人に料理の作り方を教えることになり、それが評判を呼んだ。二戸市内の自宅で本格的に料理教室を始め、これまで多くの生徒を教えてきた。
柏さんは「料理を作ることはとても楽しいこと。誰でも家庭で簡単に作れる料理を教えたい」と心掛けてきた。生徒には化学調味料を一切使わず、煮干しやかつお節などでだしを取ることを徹底させたり、盛り付けや食器も料理に合うよう工夫する大切さを説いた。
今は飽食の時代だが、「地産地消」などを大切にした正しい食生活が必要と考えている。こうした思いを広く多くの人に伝えたいと、今回初めて本を出版した。
柏さんは「今は長寿の日本人だが、肉を主体にした食生活を続けていくと、やがて短命になっていく。今はその岐路に立っている。地元の食材を大切にした食生活の意義を、これからも発信していきたい」と意欲にあふれている。
著者は、県内に残る軍事関連施設、戦跡、慰霊あるいは鎮魂の碑などの戦争遺跡を巡り、戦争がもたらした記憶をたどった。
本書には盛岡・岩手、稗貫・和賀、気仙・上閉伊など6地区に分け60項目の戦争遺跡を紹介。それぞれに写真と地図、参考文献までを併載し充実している。
盛岡市北西部に45年まであった観武ケ原錬兵場関連の観武ケ原碑や盛岡陸軍予備士官学校跡碑は、軍都としての盛岡の一面を記録する。
盛岡市内の岩手公園内にある南部利祥騎馬像台座、同高松池の横川省三銅像台座、花巻市の花巻小・楠木正成騎馬像台座などは、戦前の忠君愛国を象徴する銅像類が、国家総力戦のなか金属供出された歴史の皮肉を物語るものでもある。
45年、戦争の最終局面で特攻隊出撃基地となった北上市の岩手陸軍飛行場(通称後藤野飛行場)跡、同年に米軍艦載機と交戦し沈没した第48号駆潜艇戦死者慰霊碑(釜石市)、44年に巡業中のサーカス団のライオンが戦争のじゃまになるとして射殺されたことを供養する来恩塚(一関市)など、掲載されている戦争遺跡が秘めた事柄は悲しい。
歴史から未来への進路を学び、平和の大切さを次世代に伝えたいとする著者の労作である。
著者は教員、県高教組書記長などを経て現在花巻市在住。著書に「後藤野ー最北の特攻出撃基地」「あなたの町で戦争があった」などがある。
著者の板谷さんは28年東京生まれ。盛岡高等農林学校農芸学科、東北大学理学部化学科を卒業後、県内の高校教諭や宮城県加美町のバッハホール音楽院の講師も務めてきた。現在は盛岡に住んでいる。
「指南書」と言っても、堅苦しい内容ではない。賢治がオーケストラをつくることを夢見てバイオリンの練習を重ねたが、初心者用の教科書さえままならなかったこと。日本最初のバイオリン工場でつくられた「スズキ6号」というチェロを持っていた賢治は、それをゴーゴーと鳴らしながら「セロ弾きのゴーシュ」を書き上げたことなど、ユニークなエピソードが並ぶ。
賢治が岩手山をプリンのような存在として見ていたことを書いた「プリン・岩手山はプルプルン」や、天皇のことを話すときには姿勢を正さなければいけなかった時代に、電信柱に君が代を歌わせる作品を書いたことを紹介した「電信柱の君が代」など、賢治独自の世界観の記述も興味深い。
本書の中で、著者は賢治研究者が論じる賢治の宗教観や学識、作品解釈への違和感も唱えている。色や音に独特の感覚を持っていた賢治の世界を具体的に紹介することで、賢治の学識や知識のみならず「幻想感覚」が創作の源になっていたことを強調している。
玉山村在住の橋場あやさんの独創的なイラストも作品に味を添えている。
宮沢賢治にまつわるさまざまな話題やエピソードを集めた「賢治小景」が、熊谷印刷(盛岡市)から出版された。賢治研究家の板谷栄城さん(77)=盛岡市=が過去に新聞紙上に連載した100編余のエッセーを収録。本格的な研究書や論文では触れることのなかった数々の逸話が紹介され、興味深い。
「親友大谷良之」の項では、賢治が意中の人、安倍キミ目当てに、キミの義理の兄に当たる大谷の家を度々訪ねたことが記されている。
キミは後に岩手大や古川市の祇園寺学園短大(現宮城誠真短大)で教えた人物。エスペラントを学んでいた。板谷さんは「賢治がエスペラントに関心を抱くようになった動機や時期を知る上で貴重な手掛かり」と記す。
「プリン」では、岩手山を巨大なプリンに見立てた賢治と、望郷の対象ととらえた石川啄木を対比し「肝要なのはファンタジックな心象感覚の有無」と指摘。 「十万八千里」の項でも「賢治の信仰は幻想感覚のもたらしたもの」と分析する。
北上市の和賀川右岸に開けた須々孫氏(煤孫)村周辺を所領した一族は、惣領の和賀氏に比べ、歴史的にほとんど顧みられてこなかった。
著者自身「まともな記録類が存在しないひとつの系譜の歴史を、現代からさかのぼってその始終までたどろうとするのは、あちこちにうがたれた真っ暗闇の洞窟の中を手探りと本能的な感覚だけでうごめくようなものである」と記す。
冒頭を飾るのは、秋田県横手市の個人蔵の古文書。浅野長政が代官として奥州にいた当時、1590(天正十八)年ごろに出したと推測される手紙に「すすまこ 小原七郎右衛門殿」というあて名が記されていることが紹介される。
著者はこの手紙から、須々孫氏が小原とも名乗ったらしいことを指摘し「安俵小原氏系とは別系の『小原氏』がいて、須々孫氏の別称でもあったことを示している」「もしそれが真実なら、現在、和賀郡西部や北上市に多い小原姓は、実は須々孫氏の末裔である可能性も高いということになる」とする。
同書は、県内でも無名の須々孫氏の来歴に、時に想像の翼を駆使して迫る。ミクロの歴史に焦点を絞りながら、人類が世代を伝えていく様子について「『西の和賀氏』という一つの系統をたどることで見えた人間の普遍的なブラッド・ツリー、命の更新の姿であった」というあとがきが印象ぶかい。
表題作となっている「贈られた音楽」は、家族愛と自己犠牲をテーマにする。父母と娘、息子の四人家族は、平凡だが幸せに暮らす。父子三人は毎日森の中の泉に水くみにやってくる。泉のそばには子どもと同じくらいの背丈の石像があった。神様と呼ばれる石像は肩のところに小さな羽根がある。かつて奇跡を起こしてくれたと、父が子どものころに聞かされた。
一家の住む地域が干ばつに襲われた。父は家族のため遠い地域へ出稼ぎに行こうと決心する。途中一緒になった、同じように食べ物や、生きる糧を求め旅する人たちへの思いやりと別れ。ついに自らも倒れてしまった父親を哀れんだ石像の神様の愛が奇跡を呼ぶ。
併載の「燕の飛ぶ日」は、両親を亡くした姉弟の物語だ。懸命に生きようとするきょうだいが、自分の境遇を重ねながら見つめる軒下のツバメの巣。一羽だけうまく飛べなかった子ツバメが、時が来てついに家族五羽そろって飛び立っていくとき、中学を終え勤めた職場の人間関係で悩んでいた姉もまた、ふっきれる。
著者は「一応童話の形をとってはいるが、大人や中高生に向かって無意識にあなたの努力は報われるよ、今のひどい状況から抜け出せる日が来るよというメッセージを書いていたのかもしれない」といった思いを、あとがきに記している。
二作とも創栄出版「未来に伝えたい文学」の最高賞を受けた作品。筆者は盛岡在住で、文学合評会「水脈(みお)の会」を主宰する。
鮮魚店に奉公し、同市大通に自らの鮮魚店「一心太助」を開店するまでの第一部、陸軍に応召、満州(現中国東北部)で騎兵隊に入隊し、敗戦後シベリアに抑留された時代の第二部。第三部は復員後、鮮魚店をスーパーマーケット一心太助に衣替えした時代、そして岩山の四季(よき)園と戦友らとの「愛馬会」「アンゴラ会」のことを記した第四部からなる。
自分の力で自分の人生を開拓してきたーと自負する著者は「一度決めたことはやり抜く」との信念を、本書にも注いだという。
自分史を超えて、本書は盛岡と本県の小売業、流通業の変遷を概観する貴重な書になった。というのは、経営コンサルタントである監修者が、著者の記録に、経済の動きを加味したからだ。
「主婦の店ダイエー」が大阪に開店し話題になった三カ月後の57年12月、盛岡市材木町に東北地方初のスーパーマーケット「主婦の店 マルイチ」が開店したこと。遅れること十日ほどで著者もスーパーマーケット一心太助を開店する。さらに半年後にスーパーいちのへ(現ジョイス)が続いたといったくだりは、興味深い。71年になって、2年前に開店していたスーパーむらかみに一心太助の6店舗を譲渡し、著者はスーパーマーケット経営から退く。
自分史として読み進むうち、ダイエーをはじめとした全国、あるいは県内のスーパーマーケット業の盛衰が、難しいことを抜きにして理解でき、経済の動きがすんなりとわかる書となっている。
▼盛岡市在住で83歳の中野重平さん。終戦を知らないまま、戦後11年間も密林で生活した自分の姿が重なった。同じフィリピンのミンドロ島。飢え、病気、敵の攻撃。心が休まらない日々だった。
▼1956年11月、やっと故国の土を踏んだ。あれから半世紀。食事のたびに「もう食料の心配はしなくていい」と安心し、布団に入るときは「ぐっすり眠れる」と感謝する。今も平和のありがたさを考えない日はない。
▼そこに飛び込んだ元日本兵の情報だったが、実は中野さんは疑問を振り払うことができなかった。誰かがうそをついていると言うのではない。ミンドロ島の人々は数年前の出来事を昨日のことのように話す傾向があることを思い出したのだった。
▼情報の信ぴょう性は崩れてきた。調査団は現地から引き揚げた。「日本人が今も密林で生活している可能性はある」と思い巡らす中野さんだが、確認するすべはない
▼南の島では、多くの命が露と消えた。平和日本では、命を軽んじるかのように凶悪事件が多発している。毎年、旧盆には南方に手を合わせる中野さん。「みんなが命を大切にする時代になってほしい」の言葉が重い。
太平洋戦争末期、フィリピン・ミンドロ島に送り込まれ、終戦後11年間、山中に潜んでいた旧日本軍の特攻隊員中野重平さん(83)=岩手県軽米町出身、盛岡市在住=が、現地での過酷な体験をつづった「灼熱(しゃくねつ)の迷宮から。」を出版した。1956年に帰国を果たしてからほぼ半世紀。戦後60年の節目にもあたる今、中野さんは「自分の体験を通じ、多くの人が戦争の愚かさに気づいてほしい」と語っている。
発行元の熊谷印刷(盛岡市)の出版担当者が聞き書きでまとめた。
第1章は「ミンドロ島上陸」。敗色濃厚の南方戦線を必死で生き延びた中野さんは45年後半、仲間数人とともに再起を期しミンドロ島の奥地に逃れた。終戦の情報を知るすべはなく、そのときの覚悟を「時機は必ず来る。自活しながら生きていこう」と記している。
灼熱の山中での共同生活の様子が第2章「逃亡から自活へ」で詳細につづられる。マラリアとの闘い、生きるための物資の収奪、仲間同士がぶつかり合う中、規律を乱した者が銃殺で最期を遂げる場面も赤裸々に記す。夜は家族や古里の夢を見て「何のために生きているのか。自問自答する日々だった」と思い返す。
第3章「日本への帰還」は、終戦から11年後に帰国を果たした経過が、不安と喜びの感情とともに、とうとうと語られる。仲間はこのとき4人になっていた。「もう私たちの役目はすんだ。戦争は終わったのだ」「父母や友人、山河を思い、あきらめずに生き続けたことが生還につながった」と、安堵(あんど)の言葉が躍る。
4人の帰還者のうち2人が死去した。中野さんは「当時のことを考えると夢の中の出来事のよう。あの体験を今、しっかり記録に残しておかないと、という強い思いがあった」と語っている。
奇しくもミンダナオ島に元日本兵が生存かというニュースがながれたが、本書はミンドロ島で戦後11年間に及ぶ潜行生活を経て日本に生還した元日本兵の記録である。
興味深く読んでいるうちに、あっと思った 。『ジャングル生活12年』という本が父の本棚にあった。山本繁一という人。本書の中野重平さんは、その山本繁一さんと共にミンドロ島に生きた人だった。現在83歳で、そのミンドロ島の生活を思い出し、語った本なのだ。7人ではじまった自活生活が、最後には4人となる。マギャン族との交流、ロビンソンクルーソーさながらの自活生活はついにイノシシ20頭、ニワトリ70羽を備えるまでになる。
西和賀地方(湯田町、沢内村)に分布する多数の群生地を地図で紹介。カラー写真とイラストをふんだんに使い「春の妖精」と言われるカタクリの花について多方面から解説している。
写真は、瀬川さんがここ数年間、西和賀で撮影した約50枚。早春の緑に映える薄紫色のかれんな姿が見事にとらえられている。
瀬川さんは「カタクリを通じて多くの人に自然保護に関心を持ってもらい、里山の豊かな環境を守っていきたい」と話している。
西和賀地方のカタクリにひかれ、花巻市に移り住んだナチュラリスト瀬川強さん(51)が「西和賀 カタクリの里」を出版した。昔から庶民に愛されているカタクリだが、その知られざる生態が解き明かされている。著者による写真や絵も楽しく、カタクリを愛する気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
本の目次は、「カタクリはどんな花」「カタクリの咲くところ」「カタクリの一生」「カタクリの花の訪問者」「カタクリの歴史」など26項目。
この中で、「カタゴ」「カタカゴ」「カッタンコ」「カタコユリ」などの呼び名があること、1年のうち、地上に姿を現すのは2カ月余りで10カ月は地中で過ごし、花は1週間ほどしか咲かず、寿命は40年から50年あることなどが明らかにされている。
また、カタクリは昆虫によって受粉する虫媒花で、ギフチョウやヒメギフチョウなどが訪れること、アリが趣旨を運んで群生地がつくられること、種子にはアリが好むエライオソームト呼ばれる付属体があることにも触れている。
著者は「日本中で西和賀のカタクリが最も美しい」と話す。その理由については本の中で、色の濃さ、花とともに見られる残雪、西和賀の冬の厳しさなどをあげている。
前著の「西和賀カタクリの里 沢内村からの春のたより」は著者と、エッセイスト高橋喜平氏の共著で、1995年に講談社から出版された。03年に絶版になったため、今回の続編が企画された。瀬川さんは月1回、自然観察会を主宰しており、観察会に関連して調べたデータをまとめた。
瀬川さんは「里山に咲いているカタクリがピンチに陥っている。カタクリの魅力を知ってもらい、里山保全につながれば」と話している。
雪解けが進み、春の光が差し込む4月、同山で一番最初に顔を出すのがキクザキイチゲという。白と紫のかれんな花に追い付こうと、シュンランやカタクリ、キジムシロなどが続き、山全体が初夏の空気に包まれていく。
5月初旬から咲き始めるのはアケボノスミレやミヤマエンレイソウなど。6月初旬から中旬には工藤さんが「小さいので気をつけて」と呼び掛けるヒメハギや「雨が降ると2〜3日で花びらが散る」というヤマシャクヤクが山を彩る。
7月初旬。いよいよ気温が上がってくるとイチヤクソウやメマツヨイグサ、オオウバユリなどが咲き競う。8月になると、オオハンゴンソウやヤブカンゾウ、かわいらしいウメバチソウなども花を付ける。
9月から10月初旬まではリンドウやミゾソバが目を楽しませるが、徐々に秋の気配が迫る。フユノハナワラビは同山で最後に咲く花。春先から目を楽しませてくれた花の季節は終わりを迎え、山はいよいよ厳しい冬への備えに入る。
工藤さんが、同山の花の撮影に取り組むきっかけになったのは2002年。「健康のために」と登っていた山で、突然「不思議な形の赤い花」ナンバンギセルに目が止まった。それ以来、自身にとって同山は「花詣の山」となり、週に2回はカメラを担いで登るようになったという。
この2年の間にも、盗掘により自生の数が少なくなった花がある。「山に咲く山野草は山の財産です。大事にしていきたいものだと思います」というメッセージを込めている。
2008年9月29日発行